氣遣い・思いやり

 昨日の「横浜国際女子駅伝」を(テレビで)見ていて、ムッ<`〜´>とした。 走り終えた日本選手にインタヴューした女性アナウンサーが、大雨のなか懸命に走った、髪がずぶ濡れの選手に“自分だけ傘を差したまま”マイクを向けたのだ。  もちろん選手は、グランドコートを着ていた。グランドコートについているフードをかぶってしまうとお顔がよく写らないから、かぶらない(あるいは、かぶらせない?)のはわかるとしても、持った傘を選手に差しかけてマイクを向けることはできなかったのだろうか。(左手で傘を持ち(自分の左肩に置き)、右手でマイクを持って、自分の右側にいた選手にインタヴュー)傘とマイクを持つ手を変えるだけで良いのだ。まさか「手を変えると自分の顔が写らない」とか「選手はどうせずぶ濡れなんだから、傘はさしかけなくても良いだろう」などと思ったわけではないだろう(…と思いたい)。  選手がフードをかぶらない(あるいは、かぶらせない)なら、“自分も傘は差さない” “差すなら選手にも差しかける”のが、日の丸をつけて走った選手達への思いやりや氣遣いではないだろうか、と思ったのだ。(文字にして書くとダラダラと長くなってしまうが、ほんの一瞬のこの場面、「なによ、自分だけ傘さして!」と、 テレビ画面に向かって文句を言った私である)
 中継点、ゴール地点では、監督や選手達が 走り終えた“ずぶ濡れ”の選手にさしかけるための傘 を持って、選手を迎えていた。