光が丘の昔

 板橋区赤塚新町に住んでいた子供の頃、わが家から20メートルくらいのところに「グラントハイツ」の鉄条網があった。グラントハイツとは、米軍の住宅地で、入ってはイケナイから鉄条網が張り巡らされていたのだが、そこは子供のすること、中に入って遊んでいた。一面に広がる芝生、無造作に立つ観客スタンド付きの野球グランド、白い瀟洒なおウチ、そして(たぶん中に住んでいた子供達と遊んだのだろう)入れてもらったおウチの中には、見たこともない電化製品が並んでいて、夢の中の別世界と感じた記憶がいまでも鮮明に残っている。
 アメリカの独立記念日・7月4日には、開放されたグラントハイツに、誰でも“正式に”入ることができ、アメリカのお祭りを楽しむこともできた。丸ごとのりんごに塗られた飴、ショッキングピンク色のアイスクリームなど、どれもこれも驚いたが、中でも一番だったのが、水着を着た女性が板の上に座り、その板の下の的にボールを投げて当たると、女性がポチャンと水の中に落ちるというゲーム(見世物?)、日本の遊園地では、的にボールが当たると(作り物の)鬼がガオーと動いていた頃…だったから、子供心にカルチャーショックだった。
 すっかり話が長くなってしまった。その頃、グラントハイツの正門(だったと思う)があったのが、ここ。

 手前は川越街道、この先に、基地の入り口に良くある、関門?警備所?があった。両側の道には、グラントハイツ住人向けの“英語看板”を掲げた商店が並んでいたが、いまはもうない。そのかわりというかなんというか、いまはお風呂だ。(^o^) この道の右側に、スーパー銭湯「おふろの王様 光が丘店」がある。 ⇒http://www.tatemono.com/ousama/hikarigaoka/index.html 


 以前、母と、このお風呂に入りに来たときに、昔住んでいた赤塚新町の家を見に行ってみたら、まだあったのには母ともども驚いた。かなり朽ちていたけど…。そのウチの近くには防空壕があり、そこでもよく遊んでいた。住宅とはいえ米軍、防空壕と、大人になってみると「戦争の名残りがすぐ身近にあったのだなぁ〜」とわかる。
 (話題もお散歩道も)横道にそれたので、光が丘外周道路に戻る。光が丘公園の、いまのこの風景が、(鉄条網を潜り抜けて入った)グラントハイツのイメージ。

 住居表示は、一部、練馬区田柄もありながら「やったぁ〜っ!一周したぞぉ〜」とわが家の近くまで戻って来たとき、正しくは、一周ではなかったことに氣づいてしまった。(・_。)ズリッ でもまぁ横道にそれながらも1時間半、よく歩いたとさ。

 前述HP⇒http://www.tokyo-park.or.jp/kouen/ 内から検索[光が丘公園の概要]から(以下)引用。
 公園計画は、昭和15年紀元2600年記念の大緑地計画までさかのぼります。しかし太平洋戦争が始まり、計画は変更され、陸軍の「成増飛行場」が建設されました。
 戦後グラントハイツとして米軍の管理下にありましたが、昭和48年に返還が完了し、総面積の約1/3が公園として確保されました。昭和56年から一斉に周辺の整備が開始され、小、中、高校が15校、公団、公社、都営住宅12000戸、都内有数の大団地となりました。
 お仕事でお世話になったある先生(現在70歳代)が、ご幼少の頃、中板橋あたりにお住まいだったそうで、小学校の勤労奉仕で「成増飛行場の整地」に行った、とお話し下さったことがある。「幾多の歴史を経て、おかげさまで現在私が住まわせていただいています」と、お礼を申し上げた。